昭和52年02月26日 朝の御理解
御理解 第5節
「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」
昨日は、婦人部会に引き続いて、信心研修会でございましたから、なかなか良い研修会がもたれました。中で日田の綾部さんが発表しておられましたのに、先日から、三味線の稽古をなさった時の師匠さんでま、たいへん名人、三味線の師匠がおられる人と、たまたま久しぶりに会ったと。それでもう是非その寄れと言われる。
その人の家に、まあ寄らせて頂いて、さまざまなご兄弟のがんで寝ておられることやら、さまざまな難儀な問題を、聞かせて頂いて、本当に祈りをお願いせずにはおれないようなものを感じたと同時に、信心問答が始まったと。もうあなたとお会いするのは、もう五年も六年もなるだろうかと。あなたのところに行ってもいっつもあなたは合楽にお参りしとるといっておる。
あなたの居りなさらん綾部というのものは、もう行っても何にもならんから、もうそのまま疎遠にもなってしもうて、この頃はもう以前はそれこそ毎日のように会いよった仲だったのに、あなたが金光様に参るごつなったから、もう会いはできんごつなったと。昔の付き合い、交際というものはみんな、殆ど絶ってしまって、もう金光様金光様と、よっぽど貴女が合楽の金光様でみんなからおだてられよんなさるに違いはない。
あの人はいうならばおだてがききなさるとじゃから、恐らくたてがいよんなさるとじゃろうかというて言いよりますと言うのです。そして言われるのに、その方はあのあそこは、高塚の地蔵さんにお参りをされる。信心というものはもうただ自分が一心にお願いをしおる。一心に祈願を込めてまお参りをさせて貰う。それが信心そりゃあ向こうの方で色々ちやほや言われたり、まぁあたしゃものいわっしゃらん神様か仏様じゃなからにゃ好かんと言った様な話がでたんだそうです、もうどうも言いようが無い。
私もそれを聞かせて頂きよって、思わせてもらいますのは、確かに多くのない、多くの、人がそういう風に信心するんならば物言いなさる神様ではなくて、それこそ物を言いなさらん神様で一心に拝んでくるというの方が信心らしいと思うておる人がほとんどでもなかろうかと思うです。日本人のま宗教の観念というものが、もういうならば悲しい時の神頼みである。おかげを頂きゃあ願ほどきというてお礼参りをいっぺんすればもうそれでお終い。また何か困った時には一心におすがりをする。
そこんところを、まあ教祖は、今まではどこに参っても片便の願い捨てであろうがと。ただ自分だけが拝んでくる。ですけれどもそれの方がみんなは好いておると言う事。あとくされが無い。それでもね、わが心に神がござるから、一心を立てるからおかげが、例えば奇跡が起こるという場合もあるんだと。だから奇跡を願い、おかげを願うというだけなら、片便の願い捨てのいうならば、神様でも仏様でもいいようなもの。けどもこの方が祈るところは天地金乃神と一心なりと。
天地と一体にならせてもらえれる、それこそ輝き光るような、おかげを頂かせて頂くために、天地との交流天地が、バックボーン。いつの場合でも、天地が私の背景にあるんだと、確信して生活ができれる。そこに参ったときだけではない、拝む時だけではない、いわゆる、神恩報謝の心が生まれて、有り難い有り難いの生活に入っていくというのが、金光様の御信心です。ただ一心を立てればと、なるほど日田の奥にありますもんね、高塚のお地蔵さんとは。
私ももう十年も前だったでしょうが、菊栄会の方達とあちらの方へ、信心実習に参ります時に、高塚のお地蔵さんにもお参りさせて頂きました。丁度お参りはあっとりませんでしたけれども、沢山の人がその御願をかけ、おがんをかけられる、その願い事を書いた紙がもうそれこそいっぱいにね、そしてまあいうならば帰りにおみくじでも頂いて帰る。ただ一心。そしてあそこでお百度を踏んで帰ってくる。なるほどお賽銭をあげまいと思うならお賽銭をあげんでも良い。
誰も居りなさらんとじゃから。お金がかからん。ただ一心にお百度踏んで帰ってくる。まあ大変なお参りだそうですね。普通(?)なんかの時でしょう。それが矢張り皆いうならばお金も掛らんし、そしてそのお地蔵さんのとこ、あちらでのそのキャッチフレーズが、まいうなら人間の弱点を突いてるというか、人間の願い事一言だけなら必ず聞いてやると言う事です。いくつでんダメっちいわれる、一言だけなら何でん聞いてやるという。だから人間のね願いというものが、やっぱその一つも二つもない者はない。
必ず一つぐらいはもう切実に、もしこれが叶うたならと思うものがあるわけです。それが高塚のお地蔵さんの、いわゆるキャッチフレーズ、まあそれに惹かれてお参りをする。それがおかげを受けたり、それからまた皆あの話しを聞いてはお参りをする。だからそれを信心だと思っておる。だから金光様の御信心にかえると、それは信心では無い事になるのです。金光様の御信心はね、いわばどこまでも信心を頂くと言う事。
それも究極のところは天地金乃神と一心なりと、教祖様のこれは専売特許じゃない、お互いが天地との、いうならば交流と。万事に素晴らしいタイミングが生まれてくる。いわゆるご都合お繰り合わせが頂かれる。昨日は春日原から参ってきて三、四回参ってきた、いわゆる電話でお届があったり、参ってきたりする。で先生がお繰り合わせをお願いしときましょうと言われた。そこでお繰り合わせという意味が分からん。夕べはその事を考えて、一睡もせずに考えた。
それで今日は参ってきてと言うて昨日参ってきなさる。けれどもこれは金光教の独特のこれは言葉でしょうね。私共はなんちゃあおかげ頂きましたとかお繰り合わせ頂きましたとかと申しますから、もう当たり前の通常語のように使っとりますけれども、信心のない人達はそのお繰り合わせという意味が分からん。これはどう言う事かというと、おかげを受けると言う事は、これは大変範囲が広い。
今日もおかげ頂きまして有り難うございましたというのは、右と願った事が左になっても、左と願った事が右になってもおかげ、それが金光教の信心ですよね。おかげを頂きまして有り難うございましたと。御繰り合わせ頂きましたというのは、願いがいわば叶うた時。金銭のお繰り合わせをお願いしとったら、思いもかけないところから、その都合ができた。そういう時にお繰り合わせという。素晴らしいそこにタイミングが生まれてくる。それをお繰り合わせとこう言う。
金光様の御信心はどこまでもお繰り合わせを頂くと言う事と同時に、おかげを頂くということにあるのです。そのおかげを頂くという事がです、なら右であろうが左であろうがおかげであると分からせ、又はそれを神愛と説くわけです。だからお繰り合わせだけを願うというのなら、わが心に神がござるから一心をたてればおかげになるという(?)高塚の地蔵さんだけでなくても良い。柱なら柱一本を目指して一心不乱に祈願を込めると、わが心に神がござるからおかげになるです。
石のお地蔵さんでも良かりゃあ木のお地蔵さんでも良い。何かそこに一つの目標を立てて、一心不乱に拝む。だからそういう信心は信心ではないと、私共はそう思うわけです。参ったとか拝んだとかと、いうて自分の気休めに参って拝む。自分の心がどれほど成長するか。どれほど自分の心の中に喜びが湧くか。または安心の気持ちが開けてくるか。綾部さんの話です。あなたは三味線の名人と言われる。確かに名人だと。そこであなたが弟子を取りなさると、その弟子にもあなたが一生懸命教えなさるでしょうがと。
ちっとは覚えの悪かつでんもうそれこそ叩いてでも教えてやろうとしなさるでしょうがと。覚えが良い、そんなら自分のもっておる全てを教えてやってもええ、この弟子に譲ってもええと思って熱心に教えなさるでしょうが。そこに、いうなら三味線がだんだん上手に、いうなら三味線に道というものがあるならば、三味線の道をあなたが極めて、その道を、いうならばそれを求めてくる人達に教えられるように、合楽の親先生は決して私どんが参ったからというてちやほやなさる神様でもなければ。
お供えを沢山持っていったから特別大事になさると言った様な神様でも先生でもない。先生自身が天地と一つになってござる。そしてそこから先生自身がおかげを受けてござる。人間の幸せの条件の全てを、先生は頂いてござるとじゃろうかと思うように、人間の幸せの条件が足ろうた様子が合楽教会に満ち溢れておる。沢山の信者が、皆そういう信心を頂きたいと思うてお参りをする。だから話を聞かなければ分からない。
三味線を教えてくれというのに、さあそんなら、さっさと自分で弾かんのと言うただけじゃいかん。一通り教えて稽古させるようなもんです。だからもう何べん参っても、いつまで参っても尽きぬおかげの頂けれるのが合楽だという、そういう意味の話をしたという発表をしとられました。金光教の信心がはっきりしてくるでしょう。だからいうならば、物を言うてもらわなければいけない。そこで私は朝晩説かせて頂くお話を、なら神語りと頂いて良いわけです。
今まではどこへ参っても片便の願い捨てであった。それがここへ参ってくると、神様からご返事を頂いて帰る。どういうご返事かというと、天地と交流するところの道を説いてくださる。その天地と交流するそのルートを辿っておかげが流れてくる。そういうおかげでなからなければ本当のおかげではないと。そして自分自身も天地と、いわば一心なり、天地と共にあるなあと、神様といつも同様二人である自分というものを、自覚ができてくるところから、喜びもある安心もあるのだと。
参らなければ仏様と会えないというのじゃあない。もういつも重々自分の心の中に神様を頂いていけれる道を教えて頂くのが金光教の信心だというわけなんです。そこでです、ならここでです、ならもし例えばご利益だけを目指してくるならば、それは高塚の地蔵さんにお参りしよるのと同じ事だということになるのじゃないでしょうか。なるほど話は聞いてくる。ばってんそれを守らんとするならばです、いわば高塚の地蔵さんと同じじゃないでしょうか。
物言うてくれる。いうなら神様に御取次を願う。そして御取次を頂いて帰れるということなんです。御取次を願う、いろんなまあ自分の願い事をする。神様がね、金光大神が天地の親神様にそれを取り次いでくださる。そしてそのおかげを、またはおかげを頂く、御徳を頂く力を頂くためには、そういう問題を通して、こういう心がけにもなってくれよと、こういう修行もしてくれよという、頼みのような、願いのようなお話が御理解なんです。天地の親神様が皆さんに願っておられる、頼んでおられる。
そしてこのような幸せだけではない、あの世までも続けて頂いていけれる幸せの道を体得してくれよ、分かってくれよというのが、今度は御取次を頂いて帰ること、御取次を願い御取次を頂くのである。それが金光教なのである。にもかかわらず御取次を願うだけで御取次を頂いて帰らない、それを行じようともしないならば、それは必ずしもここに、なら参ってこんでも一心をたてて、木刀でも良か、柱でも良かそこに目当てをして一心不乱に一つ拝んでみると言った様な事ででもおかげは受けられるのだ。
それは、わが心の神がござるからおかげになるです。
私は昨日研修のあれは何の話からだったでしょうか、ああ文男先生がまあ一切、例えば人の事を願うに致しましても、そのまあ神心を持って願わなければだめだというような話をしたことからのきっかけだったでしょうか。ああそうじゃなかった。伊万里の竹内のお母さんが、あの発表されておりました。それはねその例えば、自分が子供にかける願い、長男である正憲さんを本当に一つ道の御用にでもお役に使うて頂きたいという念願を立てておられた。おかげで無事に大学にも行った。
ところが大学で学生運動に、参加した。それが自分の一つの、まあ学生運動の行き詰まりを感じた。そこから僕はお道の教師になると言う様な事ができてきたから、親の目から見たら大学に行き、親の目から見たら学生運動にも参加してたと言う事になるでしょうが。そしてなら、その一途な思いを神様へ向ける事に切り替えた。親の願いが成就して道の教師にお取立てを頂いてというお話であった。
そして私は、昨日二十四、五人ぐらいおられたが、そりゃずうっと一人ひとりから、その二十何人の人がみんなその同じ願いを持っておられるのに気が付いてから、もうとたんに感動を起こってですね、いやあ合楽ちゃあ素晴らしいとこじゃあるなと思いましたよ。みんながですね、今子供が例えばなら井上さんにしろ、何ちゅうですか稲垣さんにしろです、佐田さんにしろです、みんな子供が大学に行ってますです。
そしてできるならば、神様に頂くならばね、直接神様の御用にでん使うて頂くようなおかげが頂きたいと毎日、それこそ彼または彼女の、その名前を書いてお届けがあってるんです。そういう人が二十何人みーんな揃うとったとに、私は改めて驚いて、まあいうならば、合楽の底力というかまだこれから限りない、いうならば道の教師が、いうなら竹内のお母さんが一番最高に神様に喜んで頂く願いを立てたのだから、その喜びその神様の喜んでそれを聞き届けて下さったという事実がね。
みんながその事を一生懸命願うておられるが、素晴らしい事だと私は思うたです。昨日は二十何人の人がみんな、その願いを持っておる人ばっかりだったんです。これが一番最高の願いです、願いの中ではね。それこそ天地の親神様の手にも足にもならせていただこうかという願いなのですから。神様の一番の願いである世の中の難儀な氏子が取次助けられる働きというものをです、神様どうぞ私にもそういう御用をさせてくださいという願いなのですから。
熊谷さんあたりはもう息子じゃとても難しかけん、せめて孫にというて、もう毎日その願いがあっておるんです。熊谷きよひろがどうぞお道の御用にでもお取立てください。いうならば、長男の長男です。毎日です。だからそういう願いが成就しないはずがない。それは、神様が喜んでくださるからなんです。もうとにかく限りなくそういう人たちが合楽にはできてきて、そして例えば日本人の宗教観念と言った様なです。
ただ信心とはご利益を貰う事だけ、ただ一心不乱に願うだけそして毎日それが、なら成就した暁には願程きにお参りしたらもうそれで済んだ。それを信心かのように思うておる人達に天地の道理をいよいよ説いて、天地のご恩徳をいよいよ分かってもろうて、そのご恩徳に感動し、天地の道理を分かって道理に沿う真の道を歩かせて頂けれるおかげを頂いてくれよという神の願いを取り次ぐ人達が沢山できなければならない。
世界に和賀心時代を創ると言う事はそういう願いだけではなくて、ならまず自分の手元足元のところからです、私のような者でもお役に立つならば、私の子供でお役にもしたつならば、そういう御用にでもお引き立てくださいと言った様な願いが一番、そういう願いまでが出来て来る様になるのがお道の信心なんです。いやもう家だけおかげ頂きゃあ良か、そんなら高塚地蔵さんとあんまり変わらんと言う事になる。おかげを頂くとお繰り合わせを頂くという、その二つが相まっていかなきゃいけない。
おかげを頂くと言う事は一切がおかげ、おかげを頂きまして有り難うございました。その中にはいろんな事が入っとるでしょう。それでもそんなら口だけではない、心からそれが言えれる思えれる、それが神愛だと。神様の願いを立てたら、おかげで子供が大学に入ることができた。しかもまた学生運動に参加した。目の前では親としては心がそれこそ、もう、ひやひやするような事だったけれども、それも願いの中に入っておった。そして本人が、なら学生運動の非を悟った。
そしてそういう一途なものを神様へ向けよう、人が助かる事のために、学生運動というのは人が助かる事のためですかね、だそうですけど、その理念というのは。それは人間が作った理念ですから、非常にいわば片手落ちのところがいっぱいある事に気が付いた、分かったわけです。これは天地の親神様の心を心として、世の中の難儀な氏子を取次ぎ助けると言う事が一番本当の事になってきた。そこでなら合楽理念をマスターしなければならないと言う事になってきた。
合楽理念が段々分かってくるとです、本当にお役に立ちたいという一念が湧いてくる。私は昨日、二十何人の人を一人ひとりを見てからですね、それを思いましたよ。これはもう合楽ちゃあ素晴らしいとこだな、ちょっと会合が二十四、五人あったら、その二十何人の人がみんな、自分の子供を、犠牲にするてんなんてんちいうような、悲惨なもんじゃあないです。信心が分かれば分かるほどです。
こりゃあもうあそこ、それこそ中村さん方の親戚の人達じゃなかばってんか、本当長男ば金光様の先生にてんなんてんなしてから、そげんあんたぼうけてしもうちからち言われるそうです。お母さんはそれが一番最高のおかげであると、分かったからそうさせてもろうた。本人もそれを分かったからお道の教師を志したのだね。ほりゃまたこれから、続々と、いうならばそういう本当に神様に喜んでいただく氏子の誕生がね、お取立てをいただく信者氏子ができてくることである。
そう言う様な事が分って来る。それこそ天地とこの方が祈るところ天地金乃神と一心なりという程しの素晴らしい信心が分かってくるとその天地金乃神様との、いうならば交流をね、願わずにはおれなくなってくる。そこに本当の意味においての信心の喜び、又は、安心のおかげと言う事にもなってくるのです。今日は皆さん、皆さんもおかげを頂きましたとか、お繰り合わせを頂きましたという、この頃の信者さんは誰でも使いおるけれども、本当の意味を今日は、こう聞いていただいたと思うんです。
おかげとはこう言う事なんだと。金光教で言うおかげは。お繰り合わせというのはこういう事なんだ。素晴らしいタイミングが生まれてくるお繰り合わせを頂いたという、これはお繰り合わせ。そして段々信心して分からせて頂く事は、今日もおかげを頂きまして有り難うございますというおかげ。その今日のそれこそ痛い事もあった痒い事もあった。撫でたり擦ったりされる様な事ばっかりじゃあなかった。けれどもそれをひっくるめておかげであると分からせて頂くという信心。
金光様の御信心と昨日丁度、これまでは神が物を言うてくれるところがなかったと。金光教の信心では、合楽では神様が物を言うて下さって、いうならば取次ぎを願ったら必ず取次ぎがいただいて帰られる。だから頂いて帰ったものを活かさなければ、頂いて帰ったものを守らなければ、いうならば、物言うて下さらない仏様や神様と同じ事になるのです。だから成程物を言うてもらえる神様でなからなければならん。いわば綾部さんがその三味線のお師匠さんに説明されたと言う様にね。
あなたが三味線の名人、いうならばそれを求めてくるものに、あなたが一生懸命に教えなさるように、合楽ではいうならば、合楽の親先生を私共は、生神様とも名人とも思うておる。その名人が生神様のような方が、言われる事を聞いて、それを生活の上に現していく。そこから、生まれてくる安心、今までの趣味道楽のいうならば私がね、人達との話が合わなくなって、いうならばお付き合いするにも。
いわばお付き合いがされんごつなってきたと言う事をね。昨日その、綾部さんはなしておられましたが、そのことから今日は、そのそんならそういう信心を身に付けていくと、ギリギリどう言う事になるかと。いよいよ神様のお役に立ちたい立ちたいという一念、それは自分だけではない、子供たちにもそのお役に、本当に家の息子でお役に立つなら使うて下さいとね。
それこそ子供たちに言うならびっくりするかも知れん。僕はそげなんことならんよっち言うかもしれません。けれども親の祈りというものが、なら正教さんのように、いろいろいろんな過程を踏んであらわれてきたようにね、子供がどうでも僕は金光様の先生になると言わにゃおれないような信心にだんだんお引き立てを頂かせていただける、というような事を今日は聞いていただきました。
どうぞ。